寺カフェ法話


僧侶「三浦性曉」による、役に立つ法話。


『散る桜 残る桜も 散る桜』~無常観~


寺カフェ代官山近くには、桜の名所の目黒川があります。川沿いの遊歩道に咲く桜は、川面をゆっくり流れる花びらとともに、それはそれは美しく風情があります。

さて、上の歌は、江戸時代の曹洞宗の僧侶、良寛和尚の辞世の句と言われています。単に情緒的に情景描写をしたものではなく、今散る桜だけでなく、今咲き誇り枝に残る桜も、終には散りゆくものであると、仏教の「無常観」を教える歌となっています。
「すべてのものは流れ動き、押しとどめることはできない。」これが無常です。そして、咲き誇る花を見ながら、散りゆく姿を観ることが、無常観です。「観」とは単に空間を見ることではなく、過去・現在・未来という時間をも受け止めることです。

花が散り、枯葉が落ちるなど、もの悲しいことが無常と受け取られがちですが、決してそうではありません。春になり、つぼみとなり、花咲き乱れるのも無常だからです。そしてその花も散っていくのです。これが「無常観」です。無常は、感じるものではなく、観じるものです。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
この歌は、親鸞さまが青蓮院(しょうれんいん)の慈圓僧正(じえんそうじょう)に得度を願い出た時に詠われたものと伝えられています。 青蓮院を訪れた当時9才の幼い親鸞さまを見て、僧正は「もう少し歳を経てからにしては」と諭されました。親鸞さまは、「無常の理」を説く僧正とは思えない言葉におどろきながらも、「何歳であろうと得度させてほしい」と再度願われました。すると、「なるほどその通りであった」と親鸞さまの志を鑑み、「では今日はもう遅いから明日にしよう」となった時に、「今咲き誇る桜の花も、嵐にあえば散ってしまうように、わが志も明日はあてにならない」と、今宵得度させてほしいと重ねて懇願され、夕刻でありながら得度されました。

この二つの歌から、すべてのものが生滅変化してゆくという事実と、自らの命にも無常を観じることが大切であることがわかります。 また、私たちは、多くの悩み事に翻弄されながら、生まれ、老いて、病んで、死んでいく事実(生老病死)は変えようがありませんが、その事実を観るとき、「今」が一番大切であることもわかります。「今をいかに生きるか」が問われています。
無常観は、悲痛な現実を嘆くものではなく、過去・現在・未来を見通す智慧なのです

南無阿弥陀仏


三浦性曉プロフィール
僧侶となって40年、寺院住職23年の経験、また、布教使として30数年の全国での講演活動の実践と学びをもとに、都市開教に取り組んでいます。


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