寺カフェ法話


僧侶「三浦性曉」による、役に立つ法話。


『難度海(なんどかい)』~彼岸~


9月半ば、彼岸花も咲き乱れ、いよいよ夏から秋への季節の変わり目を迎えました。しかし、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われながら、今しばらく暑さが残るのが昨今の季候かもしれません。

さて、「彼岸」とは、「まよいの此の岸」(私たちが今いるこの世界)から「さとりの彼の岸」(阿弥陀様の極楽世界)に到ることを表す言葉です。
また、此岸から彼岸の距離は、『仏説阿弥陀経』によれば、「西方過十万億仏土(※)」という途方なく遠いところと説かれています。そして、その間は「難度海」(渡ることがむつかしい海)というたとえで示されています。

つまり、彼岸はこの岸から遠いだけでなく、「海」に阻まれているのです。この海という表現は、広さだけでなく、底知れぬ深さも表しています。そして、その海は、私たち自身を悩ませ苦しめる、私たち自身がおこす煩悩を表しているのです。

季節外れですが、私は、小学生のころから高校生まで、夏休みはほぼ毎日「川」で遊びました。もちろん海水浴にも行きましたが、「海」は苦手でした。多くの人は川よりも海が好きと言われますが、私にとっては川のほうが好きです。
川が苦手な方は、急流があったり深みがあったりと危険性を指摘しますが、川遊びになれた者からすれば、もし急流で流されたとしても、じたばたせず流れに身を任せば、必ず浅瀬にたどり着きます。
しかし海は、岸辺を離れると足の立たない深みしかありません。自ら泳ぐ体力と気力がなければ、底知れぬ深みに沈むばかりです。

自らの力で、海を越え彼岸に渡るのは難しいというよりは不可能なことでしょう。なぜなら、次から次へと湧いてくる煩悩は、海のように広く深いからです。
そしてその煩悩の海で浮かび沈みしながら、底知れぬ不安の中にいる私を、すくい出し彼岸に渡らせる阿弥陀様のはたらきを「本願力」と言い、それはまた「本願海(ほんがんかい)」と「海」にたとえられます。
なぜなら、阿弥陀様の私たちすくうはたらきは、煩悩以上に広く深く底知れないからです。煩悩の海に沈む私たちを必ず彼岸に渡すはたらきを「南無阿弥陀仏」というのです。 さらにそのはたらきを「難度海を渡す大きな船」ともたとえています。

合掌

※西方過十万憶仏土:西の方、10万憶の仏土を過ぎたところ。果てしのない距離。


三浦性曉プロフィール
僧侶となって40年、寺院住職23年の経験、また、布教使として30数年の全国での講演活動の実践と学びをもとに、都市開教に取り組んでいます。


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